梅雨が明ける頃、京都・大阪の割烹の厨房には決まって「鱧(はも)」の姿があります。骨切りの小気味よい包丁の音が厨房に響き渡るこの季節、鱧は祇園祭と並んで「京の夏」の到来を告げる食材として、古くから愛されてきました。祇園祭が「鱧祭り」の異名を持つほど、上方の夏と鱧とは切っても切れない関係にあります。日本料理さくまの店主・佐久間徳広が6年間修業した大阪・高麗橋の「吉兆」もまた、まさにこの鱧文化のただ中にありました。今回は、夏を代表する高級魚・鱧について、その背景から調理の技、お楽しみいただき方まで、少し詳しくお話ししたいと思います。

冷蔵庫のない時代を生き抜いた魚

鱧は、ウナギ目ハモ科に属する細長い魚で、鋭い歯を持つどう猛な顔つきとは裏腹に、身は驚くほど上品で淡白な白身です。その名の由来には諸説ありますが、鋭い歯で何にでも噛みつくことから「はむ(食む・咬む)」が転じたという説がよく知られています。瀬戸内海や紀伊水道など、西日本の海で水揚げされることが多く、生命力がすこぶる強いことで知られています。冷蔵・冷凍の技術がなかった時代、海から遠く離れた京都まで魚を新鮮なまま運ぶのは至難の業でしたが、鱧だけは陸に上げられ、荷車で長時間揺られてもなお生き続けるほど丈夫な魚でした。その生命力の強さゆえに、鱧は海のない京の都でも新鮮な魚として重宝され、祇園祭の頃には鱧料理を食べて暑気払いをする風習とともに、夏の食文化に深く根を下ろしていったのです。ただし鱧には、もう一つ大きな特徴があります。それは、身の中に無数の小骨(Y字骨)が縦横に走っていること。この小骨の多さゆえに、鱧はそのままでは食べることができません。骨をひとつひとつ抜くのではなく、皮一枚を残して身に極めて細かく切れ込みを入れ、口の中で骨を感じさせないようにする——これが鱧料理の出発点であり、料理人にとって最大の難関でもあります。

骨切りという技

この作業を「骨切り」と呼びます。一寸(約3センチ)の身に対して二十四本から二十六本もの包丁目を入れるといわれ、その精密さは、一朝一夕で身につくものではありません。皮一枚を残して骨だけを断つには、刃先の角度、力の入れ具合、包丁を引く速さのすべてが寸分の狂いもなく揃わなければならず、修業先の厨房では来る日も来る日も鱧に向き合い、何百本、何千本と骨切りを重ねて、ようやく指先がその感覚を覚えていきます。一人前の骨切りができるようになるまでには十年近くかかるともいわれる、まさに職人の証といえる技術です。店主が大阪・高麗橋「吉兆」で過ごした六年間は、まさにこうした地道な鍛錬の連続でした。骨切りされた鱧は、火を通すとふわりと花のように身が開き、切れ込みの美しさや均一さが、料理人の技量をそのまま映し出します。ごまかしのきかない、実に正直な食材なのです。まな板の上でリズムよく刻まれる包丁の音は、夏の厨房ならではの涼やかな響きでもあります。

鱧のいただき方

骨切りを終えた鱧は、様々な形でお客様の元へ届けられます。もっとも代表的なのは「鱧の落とし」、またの名を「牡丹鱧」。骨切りした鱧をさっと熱湯にくぐらせると、身が花びらのようにくるりと丸まって開き、その姿がまるで牡丹の花のように見えることからそう呼ばれます。氷水でしめて余分な脂を落とし、梅肉やポン酢でいただくと、鱧本来の上品な旨みと、ふわりとして歯切れの良い独特の食感が際立ちます。皮目を軽く炙る「焼き霜造り」は、香ばしさととろけるような食感を両立させた一品。骨切りした身をそのまま天ぷらにする「鱧の天ぷら」は、外はさくり、中はふわりとした食感の違いをお楽しみいただけます。さらに、鱧の身を丁寧にすり潰して仕立てる「鱧真丈」は、澄んだ吸い地に浮かべることで、鱧の滋味をやわらかく、じんわりと感じていただける一椀に仕上がります。冷たい酒との相性も良く、キリッと冷えた辛口の日本酒を合わせれば、夏の食卓がより一層引き立ちます。ひと口に鱧料理といっても、切れ込みの深さや湯にくぐらせる時間、火の入れ方ひとつで表情が大きく変わるのも、この食材の奥深いところです。

鱧と、うつわの取り合わせ

鱧は、盛り付ける器によっても、その涼やかさの表情を大きく変える食材です。牡丹鱧のように白い花を思わせる一皿には、ガラスの器や染付の器を合わせ、目にも涼を届ける工夫をすることがあります。氷を敷いた器に盛り、青柚子や大葉、みょうがといった夏の薬味を添えれば、見た目にも爽やかな一皿に仕上がります。古きよき趣を宿す古陶に盛れば、涼やかさの中にもどこか落ち着いた風情が生まれ、酒器を添えれば、鱧と冷酒との一体感がより一層引き立ちます。当店が大切にしている「器」へのこだわりは、こうした季節の食材と真正面から向き合う中で育まれてきました。旬の食材にふさわしいうつわを、料理と同じだけの手間をかけて選ぶという仕事もまた、料理人にとって欠かせない仕事のひとつなのです。

見極めも仕事のうち

同じ鱧でも、一尾一尾の質にはかなりの差があります。目方が軽すぎるものは骨が硬く身も薄いため小骨が気になりやすく、逆に大きく育ちすぎたものは身が締まって食感が硬くなりがちです。もっとも扱いやすく、脂の乗りと歯切れのバランスが良いとされるのは、一尾あたりおよそ1キロから1.5キロ前後のもの。市場に並ぶ鱧を前に、大きさや身の張り、皮の色つやを一尾ずつ見極めるところから、鱧料理はすでに始まっています。良い食材を仕入れる目もまた、骨切りの技と同じくらい、長い年月をかけて養われるものなのです。

名残りの鱧、走りの松茸

鱧の季節が終わりに近づく頃、ちょうど秋の便りとして松茸が出回り始めます。夏の名残りを惜しむ「名残りの鱧」と、秋の訪れを告げる「走りの松茸」——この二つが同じ器の中で出会う瞬間は、割烹料理における四季の移ろいを最も雄弁に物語る組み合わせのひとつとして、古くから好んで用いられてきました。当店がこだわる「旬」とは、まさにこうした一瞬の巡り合わせを逃さないということです。同じ鱧であっても、初夏の走りの頃はあっさりと繊細な味わいを、脂ののる盛夏は力強い旨みを、そして名残りの頃はどこか名残惜しさを感じさせる深い味わいを見せてくれます。その時々でまったく異なる表情を見極め、最適な形でお出しすることこそ、割烹という仕事の醍醐味だと考えています。

鱧は、骨切りという地道な手仕事なくしては成立しない、料理人の技量が正直に表れる食材です。日本料理さくまでは、大阪で培った骨切りの技と、四谷という土地で磨き上げた感性を掛け合わせながら、この夏ならではの一皿を、季節のおまかせコースの中でお楽しみいただいております。カウンター越しに、骨切りの小気味よい包丁の音や、花のように開いていく身の様子をご覧いただけるのも、この時期ならではの愉しみのひとつです。8席のみのカウンターだからこそお伝えできる、鱧という食材の奥深さを、ぜひ皆様にも知っていただけましたら幸いです。鱧の季節にご予約の上、四谷の隠れ家までお越しくださいませ。