熊の手(熊掌)という食材をご存知でしょうか。中国料理の歴史において、熊掌は「八珍」と呼ばれる八つの最高級食材のひとつに数えられ、古くは宮廷の宴に供される、まさに垂涎の一品でした。獣の掌でありながら、その正体は驚くほどの弾力とゼラチン質を宿した、上品な滋味の塊です。市場に流通することがほとんどなく、専門の料理人であっても一生のうちに扱う機会は数えるほどしかないとも言われる、まさに幻の食材です。日本料理さくまでは、適正な許可を得て仕入れた熊の手を、数量限定・完全予約制の特別コースとしてこのたびお出しすることになりました。カウンターわずか八席という小さな店だからこそ挑める、稀少な一皿への挑戦です。今回は、なぜこの食材がこれほどまでに珍重されてきたのか、その背景と、店主が向き合う仕事についてお話しいたします。

熊掌が「八珍」に数えられる理由

中国の宮廷料理における「八珍」とは、時代によって顔ぶれは変わるものの、いずれも入手の困難さと調理の難しさゆえに珍重されてきた食材群を指します。熊掌はその代表格として、明清の時代から文献にたびたび登場し、権力者の宴席を彩ってきました。獣肉でありながら脂身や赤身とはまったく異なる、コラーゲン質そのものというべき独特の食感は、当時の料理人たちにとっても腕の見せどころだったといいます。日本においても、山間部で古くから狩猟の対象とされてきた熊は、肉のみならず掌もまた貴重な滋養食材として、限られた地域や機会でのみ口にできる特別なものでした。熊の胆(くまのい)が古来より薬用として重宝されてきたことはよく知られていますが、掌もまた、それに劣らぬ滋味の源として、狩猟に携わる人々の間で大切に扱われてきた歴史があります。稀少であるがゆえに広く知られることのなかったこの食材を、今回四谷の小さなカウンターでお出しできることを、私どもは大変光栄に思っております。

仕入れにおける誠実さ

熊という野生動物を扱う以上、仕入れの透明性には人一倍の注意を払っております。当店で使用する熊の手は、都道府県の狩猟許可を得た狩猟者が捕獲し、食品衛生法に基づく食肉処理業の許可を持つ施設で適正に処理された個体のみを仕入れております。近年、絶滅危惧種の保護や違法な野生動物取引が世界的な問題となる中、熊掌もまたその象徴的な存在として取り沙汰されることが少なくありません。だからこそ私どもは、仕入れ先の許可証や処理記録を一つひとつ確認し、正規のルートで流通したものだけをお客様にお出しするという姿勢を、はっきりとお伝えしたいと考えております。鳥獣被害対策としての捕獲個体を無駄にすることなく、命を丁寧に食材として活かすという意味でも、これは決して軽んじてよい工程ではありません。おいしさの裏側にある誠実さもまた、この一皿の価値の一部だと信じております。

下処理という長い道のり

熊の手が食卓に上るまでには、気の遠くなるような下処理の工程があります。まず表面の硬い毛と皮を丁寧に焼き切り、湯通ししながら残った毛やアクを一本一本取り除いていきます。その後、臭みを抜くために香味野菜や酒とともに何度も水を替えながら長時間じっくりと下茹でを重ね、ようやく素材本来の透明感のあるゼラチン質が姿を現します。この工程には丸一日以上を要することも珍しくなく、当店では数量限定・完全予約制とさせていただいているのも、この手間ゆえのことです。骨切りに何年もの修練を要する鱧と同様、熊の手もまた、下ごしらえの丁寧さがそのまま一皿の質に直結する、ごまかしのきかない食材なのです。手を抜けばそのまま臭みや硬さとなって現れ、丁寧に向き合えばとろけるような滋味となって応えてくれる——その正直さこそ、この食材の面白さだと店主は語ります。

熊の手の楽しみ方

下処理を終えた熊の手は、じっくりと選び抜いた日本酒でことこと煮含め、とろりとしたコラーゲン質にほんのりと味を纏わせてお出しします。箸を入れるとほろりとほどけ、口の中でとろけるような独特の食感は、他の食材ではなかなか味わうことのできないものです。当店では、季節の野菜や香り高い柚子とともに盛り付け、滋味深い旨みの余韻をお楽しみいただけるよう仕立てております。脂と旨みが溶け込んだ煮汁は、少量をあえて残し、器に注ぐことで香りごと味わっていただく工夫も凝らしております。盛り付けにあたっては、この一皿にふさわしい重厚な趣の器を選び、料理の希少性と静かに呼応するよう心を配っております。器へのこだわりは当店が大切にする四つの柱のひとつでもあり、熊の手のような特別な食材にこそ、その心配りが一層生きてくると考えております。

お酒との相性

コラーゲン質を豊かに含む熊の手は、脂の重さを感じさせない上品な旨みが持ち味です。合わせるお酒には、旨みにしっかりと寄り添う燗酒がよく合います。ぬる燗で香りを開かせた純米酒を合わせれば、とろけるような食感と、じんわりと広がる米の甘みが互いを引き立て合い、体の芯からじんわりと温まるような満足感を味わっていただけます。反対に、キリッと冷えた辛口の一献を合わせれば、コラーゲン質の重さを程よく洗い流し、後味を軽やかにまとめてくれます。その日の温度や湿度、お客様のお好みに合わせて、店主自らが盃を選び、お酌をしながらお話しさせていただくのも、カウンター割烹ならではの愉しみのひとつです。滋味深い一皿と、じっくり選び抜いた一献との組み合わせを、ぜひごゆっくりとお楽しみください。

数量限定・完全予約制について

熊の手コースは、仕入れの数量に限りがあること、また下処理に長い時間を要することから、数量限定・完全予約制でお出ししております。ご予約の際に事前にお申し付けいただくことで、仕込みの日程を調整し、万全の状態でお出しできるよう努めております。稀少な食材と、それに費やす手間暇を思えば、この一皿にかける私どもの本気を感じ取っていただけるかと存じます。松茸・河豚・松葉蟹といった季節を代表する特別コースと並び、当店ならではの一期一会の一皿として、末永くお楽しみいただければ幸いです。

日本料理さくまは、カウンターわずか八席という小さな空間だからこそ、こうした一期一会の食材にじっくりと向き合うことができます。大阪・高麗橋「吉兆」で技を磨き、西麻布の割烹で研鑽を積んだ店主にとっても、熊の手は決してこれまで日常的に扱ってきた食材ではありませんでした。それでも、正規のルートで手に入った稀少な一尾(一掌)を前に、この滋味を最良の形でお客様にお届けしたいという思いから、幾度も試作を重ね、ようやく自信を持ってお出しできる一皿にたどり着いたといいます。旬を見極め、技を尽くし、器を選び抜くという当店の姿勢は、季節のおまかせコースはもちろん、この熊の手コースにおいても変わることはありません。稀少な滋味をひと匙、ひと箸ごとにじっくりと味わっていただけましたら幸いです。ご興味をお持ちの方は、ぜひご予約の際にお声がけください。皆様のお越しを、カウンターの向こうで心よりお待ちしております。