日本料理のコースにおいて、お椀物は単なる一品ではなく、その日の趣向すべてを映し出す「顔」とも言える存在です。器の蓋を開けた瞬間に立ちのぼる出汁の香り、澄み切った吸地の色、椀種と吸い口の取り合わせ——そのすべてが、店の姿勢をそのまま物語ります。当店のお椀物を支えているのは、五年寝かせた香深産の真昆布と、七年寝かせた羅臼昆布という二種の昆布、長野県戸隠の湧き水、そして本節を削り立てる鰹節です。派手な食材を使わずとも、出汁そのものの力でお客様の心を動かせるかどうか——それこそが、割烹の実力が最も如実に表れる部分だと考えております。今回は、当店のお椀物を支える出汁づくりについて、店主の視点から少しお話しさせていただきます。

昆布の格——真昆布と羅臼昆布、それぞれの個性

昆布と一口に言っても、その種類によって味わいの方向性はまったく異なります。真昆布は上品で澄んだ甘みとまろやかな旨みを持ち、透明度の高い出汁を引くことができる昆布として知られ、古くから最高級品として扱われてきました。一方、羅臼昆布は肉厚で、濃厚かつ力強い旨みとほのかな香りが特徴で、出汁の色合いにもやや深みが出ます。この二つは、いわば正反対の個性を持つ昆布です。当店では、この性格の異なる二種の昆布をあえて組み合わせることで、真昆布の上品な透明感と、羅臼昆布の奥行きのある旨みを、一つの出汁の中に同居させることを目指しております。

昆布の等級と目利き

昆布は同じ産地・同じ品種であっても、収穫される場所や個体によって等級が細かく分かれており、色艶、厚み、幅、傷の有無などによって選別されています。一等と呼ばれる最上級のものは、肉厚で色艶がよく、乾燥のムラが少ないのが特徴です。当店で使用する真昆布・羅臼昆布も、こうした厳しい選別を経た上質なものを選び、さらに数年単位で寝かせることで、素材としての完成度をもう一段階引き上げています。良い昆布を見極める目利きの力は、産地の仲買人との長年の信頼関係の中でしか培われないものであり、この関係性そのものも、当店の出汁を支える大切な財産だと考えております。

香深産真昆布——五年という熟成の時間

当店で使用する真昆布は、香深で水揚げされたものを、五年にわたり蔵で寝かせたものです。昆布は収穫してすぐのものよりも、数年寝かせることで角の取れたまろやかな旨みに変化していくことが知られています。これは昆布に含まれるグルタミン酸などの旨み成分が、貯蔵期間を経てより安定した形に変化していくためだと言われています。五年という歳月は、決して短い時間ではありません。仕入れてすぐに使うのではなく、時間そのものを味方につけるという判断には、在庫を抱える負担も伴いますが、それでもなお、この熟成による透明感と深みのある甘みは、他には代えがたいものだと考えております。

羅臼昆布——七年寝かせた出汁の凝縮感

羅臼昆布は知床半島の羅臼町周辺で水揚げされる昆布で、肉厚で濃厚な旨みを持つことから、出汁昆布の中でも特に力強い個性を持つ品種として知られています。当店では、この羅臼昆布をさらに七年という長い年月寝かせたものを使用しております。長期間の熟成を経た羅臼昆布は、角のとれた深いコクを持ちながらも、若い昆布特有の青臭さが消え、より丸みのある濃厚な旨みへと変化します。真昆布の透明感のある甘みだけでは物足りない、力強い輪郭を出汁に与えたい——そうした場面において、この七年物の羅臼昆布が大きな役割を果たしてくれます。

二種の昆布を合わせる理由——合わせ出汁という発想

真昆布と羅臼昆布、この性格の異なる二種類を組み合わせて出汁を引くのには理由があります。真昆布だけでは上品ではあるものの、時として印象が淡くなりすぎることがあり、羅臼昆布だけでは力強い反面、繊細さに欠けることがあります。五年物の真昆布が持つ澄んだ甘みを土台にしながら、七年物の羅臼昆布の濃厚な旨みを重ねることで、透明感を保ったまま奥行きのある出汁に仕上げることができます。この二種の昆布の配合比率は、その日の椀種や季節によって微妙に調整しており、単純に足し合わせるのではなく、それぞれの個性を見極めながら都度加減しているのが実情です。

修業時代に学んだ出汁の心得

大阪・高麗橋の「吉兆」で修業していた時代、出汁を引く作業は新人がまず任される仕事の一つでしたが、同時に最も厳しく見られる仕事でもありました。昆布を水に浸す時間、火にかけてから引き上げるまでの一瞬の見極め、鰹節を入れてからの秒単位の判断——そのすべてに理由があり、少しでも手順を誤ると先輩からすぐに見抜かれてしまいます。「出汁が引けるようになるまでに何年もかかる」と当時よく言われたものですが、独立して店を構えた今になって、その言葉の重みを改めて実感しております。派手な技術ではないからこそ、誤魔化しがきかない仕事だという教えは、今も出汁を引くたびに思い出す大切な心得です。

水へのこだわり——長野県戸隠の湧き水

出汁の味わいを大きく左右するもう一つの要素が、水です。当店では、長野県戸隠の湧き水を使用しております。戸隠は古くから霊山として知られ、その山々に降った雨や雪が長い年月をかけて地中を巡り、清涼な湧き水として湧き出す土地です。硬度の低い軟水は、昆布や鰹節から旨み成分を過不足なく引き出すのに適していると言われており、出汁の透明感や香りの立ち方に直接影響します。東京にいながらにして、この戸隠の水を出汁のために取り寄せているのは、水一つで出汁の完成度がまったく変わってしまうことを、身をもって実感しているからに他なりません。

本節の削りがつお——鰹節の格

出汁のもう一方の主役が、鰹節です。当店では、本枯節と呼ばれる、カビ付けを重ねてじっくりと熟成させた本節を、使う直前に削り立ててお使いしております。鰹節は削ってから時間が経つと、香りが飛び、酸化によって風味が損なわれていきます。そのため、出汁を引く直前に必要な分だけを削ることを徹底しております。削り立ての本節をひとつまみ手に取っただけでも、立ちのぼる香りの豊かさは、既製の削り節とは比較になりません。昆布出汁の繊細な旨みに、この本節の香り高い一番出汁を重ねることで、澄んだ中にも奥行きのある一杯の出汁が完成します。

本枯節ができるまで——カビ付けという手間

本枯節と呼ばれる鰹節は、鰹を煮熟し燻煙にかけたのち、優良なカビ菌を植え付けては天日で乾燥させるという工程を何度も繰り返すことで作られます。このカビ付けの工程には数ヶ月から半年以上の時間を要し、カビが節の内部に残った余分な水分と脂肪分を分解しながら、じっくりと熟成を進めていきます。この手間を経ることで、雑味のない澄んだ香りと、凝縮された深い旨みを持つ節に仕上がります。当店で使用する本節も、こうした手間を惜しまず仕立てられたものであり、削り立ての一削りからは、その手間の蓄積を裏付けるような芳醇な香りが立ちのぼります。

出汁を引くという仕事——温度と時間の見極め

出汁を引く作業は、一見単純に見えて、実は非常に繊細な仕事です。まず二種の昆布を水に浸し、じっくりと時間をかけて昆布の旨みを引き出したのち、沸騰させることなく引き上げます。沸騰させてしまうと昆布特有の粘りや雑味が出てしまうため、この温度管理には細心の注意を払います。その後、削り立ての本節を加え、短時間で引き上げることで、雑味のない澄んだ一番出汁が完成します。同じ昆布、同じ鰹節を使っても、その日の気温や湿度によって微妙に仕上がりが変わるため、長年の経験による感覚的な判断が欠かせません。この一連の工程こそが、出汁という一杯の完成度を決定づけると考えております。

一番出汁と二番出汁の使い分け

こうして丁寧に引いた出汁は「一番出汁」と呼ばれ、香り高く澄んだ味わいが身上のため、お椀物のようにその出汁の味わいそのものを主役として味わっていただく料理に用います。一方、一番出汁を引いた後の昆布と鰹節を再び煮出したものは「二番出汁」と呼ばれ、旨みは一番出汁に劣るものの、しっかりとした風味を持つため、炊き合わせや味噌汁など、他の食材の味を支える脇役としての出汁に活用しております。同じ昆布と鰹節からでも、用途に応じて一番出汁と二番出汁を使い分けることで、無駄なく、それぞれの持ち味を余すところなく活かすことができると考えております。

お椀の一椀に込める季節感

こうして丁寧に引いた出汁は、その日の椀種や吸い口と組み合わさることで、初めて一つのお椀として完成します。春には筍や若布、夏には鱧や冬瓜、秋には松茸や鱧に代わる白身魚、冬には蟹や蕪など、季節ごとに移ろう椀種を、この出汁が静かに支えています。吸い口に添える柚子や木の芽、山椒の一葉もまた、出汁の香りを引き立てるための大切な役割を担っています。派手な椀種を使わずとも、澄んだ出汁そのものの持つ力によって、季節の移ろいと店の姿勢をお伝えできるのが、お椀物という一品の面白さだと感じております。

塩梅という最後の仕上げ

どれほど良質な昆布と鰹節、水を用いても、最後の味付けの加減——いわゆる「塩梅」を誤れば、出汁本来の持ち味は台無しになってしまいます。当店では、極めて少量の塩と淡口醤油のみで味を調え、出汁そのものの香りと旨みを決して覆い隠さないよう心がけております。味の濃さは、その日の椀種や気温、さらにはお出しする順番によっても微妙に変えており、舌ではなく感覚に近い部分で判断している工程です。この「塩梅」という言葉が、味加減だけでなく物事全般の按配を指す言葉として使われるようになったのも頷けるほど、繊細で奥深い仕事だと感じております。

器と椀物の作法

お椀物をお出しする際には、その日の出汁の色合いや椀種に合わせて、漆器を中心とした器を選んでおります。蓋を開けた瞬間に立ちのぼる香りをお楽しみいただけるよう、蓋付きの椀を用いることにもこだわりがあります。季節に応じて意匠の異なる椀を使い分けることで、視覚からも季節を感じていただけるよう工夫しております。カウンター越しに蓋を開けていただくその瞬間の表情こそ、当店がお椀物を通じてお伝えしたい、何よりの瞬間だと考えております。

日本料理さくまは、カウンターわずか八席という小さな空間だからこそ、五年物の真昆布、七年物の羅臼昆布、戸隠の湧き水、削り立ての本節という一つひとつの素材と、真摯に向き合うことができます。華やかな食材が並ぶわけではないお椀物だからこそ、出汁そのものの完成度がすべてを物語ります。時間をかけて熟成させた昆布、遠く長野から取り寄せる水、削りたての鰹節——それぞれに手間と時間をかけることでしか辿り着けない一杯の出汁を、これからも大切に引き続けてまいります。皆様がお椀の蓋を開けた瞬間に、少しでも季節の香りと店の心を感じていただければ、これに勝る喜びはございません。皆様のお越しを心よりお待ちしております。