鰻という魚を思い浮かべる時、多くの方の頭には「土用の丑の日」に食べる、あの香ばしい蒲焼の姿が浮かぶのではないでしょうか。夏の滋養食としてすっかり日本人の食文化に根づいた鰻ですが、その裏側には「天然物」と「養殖物」という、まったく異なる二つの物語があることは、あまり知られていません。天然の鰻は今や幻とも言えるほど数が減り、市場に出回る鰻の大半は養殖によって支えられています。けれども、それは養殖が劣るということでは決してなく、むしろ長年の技術の積み重ねによって磨き上げられてきた、もう一つの鰻の完成形とも言えるものです。日本料理さくまでは、時期に応じて天然物・養殖物それぞれの個性を見極めながら、鰻という食材に向き合っております。今回は、この二つの鰻の生態や味わいの違いについて、店主の視点から少しお話しさせていただきます。
土用の丑の日という風習——平賀源内の逸話
鰻といえば「土用の丑の日」を思い浮かべる方が多いと思いますが、この風習の起源には、江戸時代の発明家・平賀源内にまつわる逸話がよく知られています。夏場に売り上げが落ち込んで困っていた鰻屋が源内に相談したところ、「本日丑の日」と大きく書いた紙を店先に貼ることを勧めたところ、これが評判となり大繁盛したというものです。丑の日に「う」のつくものを食べると夏バテしないという古くからの言い伝えと結びつき、鰻を食べる習慣として広く定着したと言われています。真偽のほどは定かではありませんが、栄養価の高い鰻を、体力の落ちやすい夏の盛りに食べるという知恵そのものは、理にかなった生活の工夫だったのだろうと思います。当店では、この土用の丑の日に限らず、一年を通じて時期ごとの鰻の状態を見極めながらお出しするよう心がけております。
鰻という魚の生態——川と海を行き来する一生
鰻はその生涯において、川と海を大きく行き来する珍しい生態を持つ魚です。稚魚の頃はシラスウナギと呼ばれる透明な姿で、はるか南方の海(マリアナ海溝周辺と考えられています)で生まれ、海流に乗って日本の沿岸までたどり着きます。そこから川を遡上し、河川や湖沼で数年から十数年をかけてじっくりと成長します。そして成熟した個体は再び川を下り、生まれ故郷である遠い海へと帰って産卵する——という壮大な一生を送ります。この生態がまだ完全には解明されていないことも、鰻という魚の神秘性を高めている理由の一つです。天然の鰻は、この川と海を行き来する過程で、その土地の水質や餌となる生き物の違いを受けながら育つため、生育環境によって身質や脂の乗り方に個体差が生まれます。この「一つとして同じものがない」という点こそ、天然鰻ならではの面白さだと感じています。実際、鰻がマリアナ海溝付近で産卵しているという事実が科学的に裏付けられたのは比較的最近のことで、日本の研究チームが天然の卵を初めて発見したのは2009年のことでした。長きにわたり食べられてきた身近な魚でありながら、その生態の核心部分がつい最近まで謎に包まれていたという事実は、鰻という魚の奥深さを物語っていると思います。
天然鰻はなぜ希少なのか
かつて鰻は、河川や水路に普通に生息する身近な魚でした。しかし近年、天然の鰻は急激にその数を減らしており、環境省のレッドリストでも絶滅危惧種に指定されています。背景には、河川環境の変化による生育場所の減少、シラスウナギの来遊量そのものの減少、そして海洋環境の変化など、複合的な要因があると考えられています。こうした状況を受けて、天然鰻の漁獲や流通には各地で厳しい制限が設けられており、市場に出回る量はごくわずかです。当店で天然物を扱う際も、正規の許可を得た漁業者からの入荷に限り、その時々に手に入る分だけを大切に仕入れております。希少であるからこそ、一尾一尾の背景にある川や漁師の仕事に思いを馳せながら、丁寧に調理することを心がけています。
養殖鰻を支える技術
現在市場に出回る鰻のほとんどは養殖によるものですが、これは天然の稚魚であるシラスウナギを捕獲し、池や水槽で成魚まで育て上げるという方法によって成り立っています。鰻の完全養殖(卵から育てる技術)はまだ研究段階にあり、実用化には至っていないため、養殖もまた天然のシラスウナギに支えられているというのが実情です。養殖の現場では、水温や水質を一年を通じて丁寧に管理し、餌の配合や与える量を細かく調整することで、身に均一に脂を乗せ、安定した品質の鰻を育て上げます。産地によって水質や育成方法に違いがあり、それぞれの生産者が長年の経験によって独自のノウハウを築いてきました。天然物のような一期一会の個体差はありませんが、いつでも安定した美味しさを届けられるという点は、養殖ならではの大きな価値だと考えています。
天然と養殖、味わいの違い
天然の鰻は、川や湖で長い年月をかけて自ら餌を探しながら育つため、身が引き締まり、脂は控えめながらも野趣に富んだ力強い味わいが特徴です。個体によって脂の乗り方や身の硬さに差があり、季節や漁場によっても表情を変えるのが天然物の魅力です。一方、養殖の鰻は餌の管理が行き届いているため、全体的にふっくらと脂が乗り、口の中でとろけるような柔らかな食感に仕上がります。脂の甘みがしっかりと感じられ、初めて鰻を召し上がる方にも親しみやすい味わいと言えるでしょう。どちらが優れているというものではなく、力強い滋味を楽しみたい時は天然物を、ふくよかな脂の旨みを堪能したい時は養殖物を、というように、その日の趣向やお客様のお好みに応じて使い分けることを大切にしております。
目利きという仕事
良い鰻を見極める基準は、天然物と養殖物とで少しずつ異なります。天然物であれば、体の張りや動きの活発さ、傷の少なさに加え、持った時の重み方から身の締まり具合を判断します。養殖物の場合は、脂の乗り方が全体に均一であるか、体色に艶があるかといった点を丁寧に確認します。さらに、鰻は個体によって皮の厚みや骨格の硬さも異なるため、実際に捌いてみるまで本当の質はわからないという難しさもあります。市場やご縁のある業者から届く鰻を一尾ずつ手に取り、状態を見極める作業は地道な仕事ですが、この目利きの精度が、最終的にお客様にお出しする一皿の完成度を大きく左右すると考えております。
産地による個性の違い
養殖鰻は産地によっても個性が異なり、浜名湖、鹿児島、宮崎、愛知県一色などが古くから名産地として知られています。浜名湖は日本における養殖発祥の地の一つとして知られ、その伝統と技術の蓄積から今なお高い評価を受けています。鹿児島や宮崎は温暖な気候を生かし、比較的短い期間でふっくらとした身に育て上げる産地として知られ、一色は矢作川水系の豊かな水を活かした養殖で名を馳せています。同じ養殖でも、産地の水質や気候、育成期間の違いによって、身の締まり方や脂の質にそれぞれ個性が表れます。天然物であれば、利根川水系や四万十川、宍道湖など、河川や汽水湖ごとに漁獲される個体の性格も変わってきます。当店では、その時々に最も状態の良い産地のものを見極めて仕入れることを大切にしております。
捌き方の作法——関東と関西の違い
鰻の捌き方には、大きく分けて関東風の「背開き」と関西風の「腹開き」があります。江戸の武家文化においては「腹を切る」ことが切腹を連想させ縁起が悪いとされたため、背中から開く背開きが定着したと言われています。一方、商人文化が中心であった大阪では、腹を割って率直に話す「腹を割って話す」という発想から、腹開きが好まれたという説があります。また関東では一度蒸してから焼く「白焼き→蒸し→本焼き」という工程を踏むのに対し、関西では蒸さずに直接じっくりと焼き上げる地焼きが主流です。それぞれの製法によって、ふっくらと柔らかい食感になるか、皮目の香ばしさと身の弾力を活かした仕上がりになるかが変わってきます。当店では素材の状態やその日の趣向に応じて、両方の技法を使い分けながら調理しております。
蒲焼という技——串打ち三年、割き八年、焼き一生
鰻職人の世界には「串打ち三年、割き八年、焼き一生」という言葉があります。串を打つ技術を覚えるのに三年、鰻を捌く技術を身につけるのに八年、そして焼きの技術に至っては一生かけて磨き続けるものだという、この仕事の奥深さを表した言葉です。炭火から少し距離を置きながら、団扇で火加減を調整し、皮目と身の両面に均等に熱を通していく作業は、わずかな判断の遅れが焼き上がりを大きく左右する繊細な仕事です。たれをくぐらせては炙り、またくぐらせては炙りという工程を何度も繰り返すことで、たれが少しずつ鰻の身に染み込み、香ばしい香りとともに奥行きのある味わいが生まれます。焼き上がりの一瞬の見極めこそが、鰻料理の真骨頂だと考えています。
盛り付けと器
鰻をお出しする際には、香ばしい焼き色と、たれの艶やかな照りを最大限に活かす盛り付けを心がけています。落ち着いた色合いの漆器や陶器に乗せることで、鰻本来の艶やかな飴色がより一層引き立ちます。季節に応じて、山椒の若葉や、さっと炙った季節の野菜を添えることで、香りと彩りに奥行きを加えるよう工夫しております。天然物をお出しする際には、その希少性にふさわしい佇まいの器を選び、養殖物をお出しする際には、脂の乗った柔らかな身をより親しみやすく見せる盛り付けを意識するなど、器の選び方一つにも、その鰻がたどってきた背景を映し出すよう心を配っています。
お酒との相性
鰻の香ばしいたれの風味と脂の旨みには、しっかりとした米の甘みを感じる純米酒がよく合います。特にぬる燗にした純米酒は、鰻の脂を程よく包み込みながら、たれの香ばしさを引き立ててくれます。天然物のような力強い味わいには、骨太でコクのある燗酒を、養殖物のふくよかな脂には、やや冷やして飲むすっきりとした辛口の一献をというように、鰻の個性に応じて盃を選ぶのも、カウンター割烹ならではの愉しみです。その日の温度や湿度、お客様のお好みに応じて店主が酒を選び、手ずから注がせていただく時間も、鰻料理をより深く味わっていただくための大切な演出だと考えております。
日本料理さくまは、カウンターわずか八席という小さな空間だからこそ、天然物・養殖物それぞれの鰻と、真摯に向き合うことができます。数を減らし続ける天然物の重みと、長年の技術によって磨かれてきた養殖物の安定した美味しさ——そのどちらも、鰻という食材が私たちに教えてくれる大切な滋味です。目利き、捌き、焼きという一つひとつの仕事を積み重ね、その日その日の鰻をいかに丁寧な一皿に仕立てるか——それこそが、当店が大切にしている姿勢です。天然物と養殖物、どちらが優れているかを競うのではなく、それぞれが歩んできた背景に思いを馳せながら味わっていただくことこそ、この食材を最も豊かに楽しむ方法ではないかと店主は考えております。季節の折々には、ぜひこの鰻の奥深さをカウンター越しにゆっくりとお楽しみください。皆様のお越しを心よりお待ちしております。