秋が深まり、朝晩の空気がひんやりと澄んでくる頃、厨房に届いた木箱の蓋を開けた瞬間に立ちのぼる香りがあります。松茸です。「香り松茸、味しめじ」という言葉があるように、松茸の真価は何よりもその香りにあり、日本人は古くからこの香りに秋の訪れを感じてきました。万葉集にも「高松のこの峰も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ」と詠まれており、千年以上も前から秋を象徴する味覚として愛されてきたことがうかがえます。今回は、そんな松茸という茸について、その生態や目利き、そして日本料理の中でどのように扱っているかをご紹介いたします。

アカマツと共に生きる茸——人工栽培ができない理由

松茸は、主にアカマツの根と共生して育つ「菌根菌」と呼ばれる種類の茸です。松の根から糖分などの栄養を受け取る代わりに、土の中の水分や養分を松に届けるという、互いに支え合う関係を築いています。この共生関係があまりに繊細であるため、椎茸やしめじのように原木や菌床で人工的に栽培する技術は、長年の研究にもかかわらず、いまだ実用化に至っていません。また松茸は、落ち葉が少なく水はけのよい、痩せた土地を好みます。かつて里山の落ち葉や枯れ枝が燃料として集められていた時代には、松林は自然と松茸の育ちやすい環境に保たれていました。しかし暮らしの変化とともに山の手入れが行われなくなり、林床が肥えすぎたことや松枯れの広がりもあって、松茸の生える場所は年々減っています。昭和十六年頃には国内で一万トンを超えていたと言われる生産量も、近年では数十トンほどにまで落ち込んでいます。

貴族の遊びから将軍家への献上へ——松茸と日本人の歴史

松茸と日本人との関わりは古く、平安時代にはすでに貴族たちが秋の山へ出かけ、松茸狩りを楽しんでいたことが記録に残っています。紅葉の山を歩きながら松の根元に笠をのぞかせた松茸を探し、その場で焼いて香りを楽しむ——それは食事であると同時に、季節を愛でる雅やかな遊びでもありました。時代が下って室町時代になると、松茸は贈答品としても重んじられるようになり、江戸時代には京都や丹波で採れた松茸が将軍家へ献上されていたと伝えられています。採れたての松茸を一刻も早く届けるため、山から街道を急いで運ばれたという話も残っており、その香りがいかに尊ばれていたかがうかがえます。庶民の間でも、秋になれば松茸を炊き込んだご飯を囲むことが季節の楽しみとして広まり、松茸は身分を問わず、日本人にとって秋そのものを象徴する存在となっていきました。

国産と輸入、それぞれの松茸

国内の産地としては、長野県や岩手県、そして古くから名高い京都の丹波地方などが知られています。国産の松茸は、採れてから届くまでの時間が短いぶん香りが際立ち、その年の気候によって出来が大きく左右されるのも特徴です。夏の暑さが長引いたり、秋に雨が少なかったりすると、発生が遅れたり量が減ったりと、毎年まったく違う表情を見せます。一方、中国や韓国、カナダ、アメリカなどからも松茸が輸入されており、こちらは比較的安定して手に入ります。同じ松茸でも、育つ土地や共生する樹木の違い、運ばれてくるまでの時間によって、香りの強さや身の質感には違いがあります。どちらが良い悪いというよりも、その年、その日に手に入るものの状態をよく見極め、ふさわしい料理に仕立てることが大切だと考えております。

切り分けた松茸

各地の松茸猟師さんに支えられて

日本料理さくまでは、北海道、長野、岩手、新潟、山梨、京都と、各地の山で松茸を採る松茸猟師さんたちとのつながりを大切にしております。松茸の採れる場所は、猟師さんにとって家族にも明かさないと言われるほど大切なもので、長年山に通い続けた人だけが知る松林があります。そうした猟師さんたちが採れたての鮮度の高い松茸を送ってくださるおかげで、香りの良い状態の松茸を料理に使うことができます。産地ごとに、また同じ産地でも山や採れた日によって、香りの立ち方や身の締まり方は少しずつ違います。届いた松茸を一本ずつ確かめながら、その個性に合わせて料理を考えるのも、この季節ならではの楽しみです。また時には、私自ら山へ松茸を採りに行き、その日の夜にはお客様にお出しできるようにしております。山の空気をまとったままの松茸の香りは、やはり格別です。

各地から届いた松茸

目利きの勘所——つぼみと開き

松茸は、笠の開き具合によって呼び名も扱いも変わります。笠が開く前のものは「つぼみ」と呼ばれ、身が締まって歯ざわりがよく、松茸らしい凛とした香りを内に秘めています。笠が少し開きかけたものは「中開き」、すっかり開いたものは「開き」と呼ばれ、香りはむしろ外へと強く広がるため、焼き物や炊き込みご飯にするとその香りが存分に活きてきます。目利きの際には、軸が太く根元まで張りがあること、指で軽く押した時にしっかりとした弾力があることを確かめます。湿りすぎているものや、軸の内側が空洞になっているもの、虫が入っているものは避けなければなりません。そして何より大切なのが、箱を開けた瞬間の香りの立ち方です。手に取って鼻を近づけた時に、清々しい松の香りがすっと抜けていくものは、間違いのない松茸です。

松茸の断面

洗わない、という下ごしらえ

松茸の下ごしらえで最も大切なのは、香りを損なわないことです。松茸の香りは表面に近いところに多く含まれているため、水で洗ってしまうと、せっかくの香りが流れ落ちてしまいます。そのため、固く絞った濡れ布巾で表面の土や汚れをやさしく拭い取るにとどめます。根元の石づきは、鉛筆を削るように薄く削ぎ落とし、汚れた部分だけを丁寧に取り除きます。切り分ける際には、包丁を使わずに繊維に沿って手で裂くこともあります。断面が不揃いになることで、香りが立ちやすく、出汁もよく絡むようになるからです。料理によって包丁で切るか手で裂くかを使い分けるのも、松茸を扱う上での小さな工夫の一つです。

下ごしらえをした松茸

土瓶蒸しと鱧松——秋を味わう松茸の仕事

松茸の料理として真っ先に挙げられるのが土瓶蒸しです。小さな土瓶に松茸と海老、銀杏、三つ葉などを入れ、吸い地を張って蒸し上げると、蓋を取った瞬間に松茸の香りがふわりと立ちのぼります。まずは猪口に注いだ出汁を味わい、すだちを搾って香りの変化を楽しみ、それから具をいただく——一つの器の中で、移ろう香りを順に楽しめるのが土瓶蒸しの醍醐味です。また関西では、夏の名残りの鱧と秋の走りの松茸を合わせた「鱧松」が、季節の変わり目を告げる料理として親しまれてきました。脂の乗った名残りの鱧と香り高い松茸を一つの椀の中で合わせることで、過ぎゆく夏と訪れる秋とが重なり合います。大阪で修業した者として、この取り合わせには特別な思いがあります。そのほか、炭火で香ばしく炙った焼き松茸や、土鍋で炊き上げる松茸ご飯など、素材の香りを素直に活かす料理を大切にしております。

炭火で焼く松茸 焼き松茸、すだちと割醤油を添えて

松茸は、人の手では育てることのできない、山と松とが長い時間をかけて育む恵みです。採れる量も時期も、その年の自然次第。だからこそ、一本一本と向き合い、その香りを余すことなく料理に移したいと思っております。秋の短い季節にだけ出会える香りを、一皿、一椀の中に込めること。それが、この季節の料理人の仕事だと考えております。